かんのん日記

主に旅行記です。

東海道川崎宿を歩く

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雨が止んだので、運動不足解消を目的に東海道五十三次川崎宿を歩いてみた。

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こちら、多摩川にかかる六郷大橋からスタート。

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すぐに川崎稲荷社に到着。

1716(享保元)年、徳川吉宗が八代将軍継承で江戸下向の折り、この稲荷境内で休息したと伝えられている。

小さいお稲荷さんだが、今も地元に大事にされているようだ。

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川崎宿は品川と神奈川両宿の伝馬負担を軽減するために1623(元和9)年に設立された。

つまり、川崎宿は最後の方に作られた宿であった。

川崎宿は、最初は新宿と砂子(いさご)の2町から始まり、その後、久根崎(くねざき)と小土呂(ことろ)の町を含む4つで構成されたそうだ。

川崎にも新宿があったのか🤭

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菓寮 東照(とうてる)

大正2年創業。川崎宿の茶屋で好評であった奈良茶飯を現代風にアレンジした「奈良茶飯風おこわ」を食べることができる。

かわっぴら餅という平たい焼き大福がウリ。

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一行寺(いちぎょうじ)

別名閻魔寺として有名らしい。

毎年1月と7月の年2回、閻魔大王の御開帳が行われているが、新型コロナウイルス感染症が収束しないため中止。残念。

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宗三寺(そうさんじ)

鎌倉時代創建。境内には遊女供養塔がある。

曹洞宗の寺で、墓地も大きく、遊女供養塔を見つけられなかった。

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鰻 まるだい

1921(大正10)年創業の鰻屋

新型コロナウイルスに負けない体でいるために、鰻丼を食べようp(^_^)q

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鰻丼3300円。

接客はイマイチだったが、アクリル板をしなくても十分に余裕あるスペースが確保されているので安心して食事できた。

鰻を食べてパワーアップ💪

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散歩再開。すぐに問屋場跡。

「跡」なので、今はセブンイレブン。人の出入りが多いのは昔も今も同じだね。

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これから、いさご通りへ入ります。

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いさご通りの入口にある川崎信用金庫本店の脇には、詳しい看板があった。

読んでいるのはわたしひとりだけだが。

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佐藤惣之助の碑

佐藤惣之助は、大正時代に活躍した詩人で歌謡曲の作詞家としても有名。

阪神タイガース六甲おろし」の作詞家である。

佐藤惣之助は、代々川崎宿砂子の本陣(幕府役人が公用の旅で宿泊する宿舎)を預かる家に生まれた。

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東海道五十三次川崎信用金庫浮世絵シャッター。

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小土呂(こどろ)橋跡

小土呂橋は、新川堀の悪水路に架かっていた橋。橋の欄干の親柱が交差点の歩道脇に保存されている。

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元々はこんな水路だったようで、小土呂橋が存在していたようだが、現在は一滴も水は流れていない。車やバスがたくさん通る大きな通りになってしまった。

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教安寺(きょうあんじ)

写真に写っていないが、山門前にある富士講の灯篭は1840(天保11)年に建てられ、「宿内安全」と刻まれているらしい。

帰宅してから気づいた💦

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川崎市立川崎小学校

昔も懐かしい丸型ポストが良い。川崎郵便局が設置しており、今でも現役だ。

こちらの卒業生には、作詞家の佐藤惣之助や歌手の坂本九がいる。

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だから、京急川崎駅の発車メロディは、「上を向いて歩こう」なんだ。

坂本九さん、44歳で亡くなったのか。若かったのだなぁ。

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芭蕉の句碑

1694(元禄7)年5月江戸を立ち、故郷の伊賀へ帰る際、芭蕉との別れを惜しむ江戸の門人の利牛、野坡、岱水は多摩川を渡り、川崎宿まで見送りにきて八丁畷の榎だんごという店で最後の別れをかわしました。この時、芭蕉が詠んだ句が

「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」です。

紫陽花と京急の電車がバックでいい味出しています。

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あ!!!

孤独のグルメを観て、是非食べに行きたいと切望している「つるや」だー。

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今日まで休業(涙)残念。コロナウイルス、本当に残念。

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京浜急行八丁畷駅までやってきた。

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八丁畷駅の脇にある無縁塚

江戸時代、災害や飢餓などでなくなった身元不明の遺体を埋葬したと言われている。

これら無縁仏の供養のための「慰霊塔」だ。

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とてもわかりやすい解説でじっくり読んでしまった。もちろん読んでいるのは自分だけ。

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旧東海道に咲くアガパンサスの花が美しい。

川崎市から横浜市に突入。

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夫婦(女夫)橋(めおとばし)

江戸時代、東海道の市場村と川崎との境界には夫婦橋という二つの橋があり、東海道を歩く人々の憩いのばともなっていた、らしい。

しかし、今は橋の面影ゼロ。

単なる道路。立て看板がなければ、ここに橋があったことに気がつかない。

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横浜熊野神社

熊野神社は、紀州熊野別当尊慶が弘仁年間(810-824)「権現社地」に勧請、天保年間(1830-1844)に道上耕地へ遷座、明治5年JR東海道線の敷設により、八幡社のあった当地へ遷座したといいます。

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市場の一里塚

1604(慶長9)年、徳川家康は街道を整備し、一里ごとに5間四方の塚を築いた。塚には榎(えのき)を植え、旅人の里程(りてい)の目安とした。榎を植えた理由は、根が深くはって塚が崩れにくいからだと言われている。ここは、日本橋から5番目の一里塚にあたる。

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鶴見川まで歩いてきた。疲れた。

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神奈川宿まではまだまだ遠いが、この橋を渡って今日の散歩を終わりにしよう。

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車が通ると結構揺れる鶴見橋。怖い。

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生麦事件後、幕府は取り締まりのため、川崎~保土ヶ谷間に番所を設置し鶴見橋には5番番所が設けられ、再び生麦事件のようなことが起こらないように警備がより一層強化され、通行を取り締まるための門と番所が設けられた。それが現在の鶴見橋関門前とされているそうです。

 

ここで散歩終了〜。

歩数計 11714歩

 

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川崎の問屋場跡、セブンイレブンで購入。

6月17日から販売されたばかりのミルクレープ、無糖の珈琲牛乳と共に美味しくいただきました。

 

1日も早く新型コロナウイルス感染症が収束しますように。