鎌倉殿の13人は「第36回武士の鑑」でついに、畠山重忠公(中川大志さん)が、初代執権・北条時政(坂東彌十郎さん)の謀略によって謀反の疑いをかけられ、 鎌倉に向かう途中、 北条義時(小栗旬さん)率いる大軍に滅ぼされた。
非常に見応えがあった。
鎌倉殿の13人〜頼朝が信頼した畠山重忠ゆかりの地 - かんのん日記
亡くなった場所は1月末に訪問済みのため、今日は重忠公が住んでいたと伝えられる武蔵国(埼玉県比企郡嵐山町)の菅谷館跡(すがややかたあと)を訪れることにした。
嵐山町(らんざんちょう)は、その美しい景観が京都の嵐山に似ていることから、「武蔵嵐山」と言われたことが始まりで、その後町名にも採用された。嵐山渓谷は秋の紅葉が特に素晴らしいらしい。
今日は紅葉にはまだ時期的に早いので、重忠公ゆかりの地とその周辺の訪問のみ。
カレーと甘味 ここか
まずは、築40年ほどの民家を改装したカフェでランチ。
自家製惣菜たっぷりのここかカレープレート(ドリンク付)1100円
右上の小鉢はピクルス。
見た目通り、大変美味しいカレーで、あっという間に平らげてしまった。
この古民家カフェは、素敵な日本庭園を眺めることができる。
カレープレートにプラス150円で、本日のデザート(酒粕のブラマンジェ)も注文した。
酒粕の香りがほわっと漂う上品なデザート。もちろん美味しくいただいた。
日本庭園を眺めながら穏やかな時間を過ごせて大満足のランチだった。
重忠公ゆかりの地 菅谷館跡(すがややかたあと)に到着。
重忠公は、1162(長寛2)年に、父・畠山庄司重能と、母(三浦義明の娘)の次男として、現在の深谷市畠山の地に生まれた。
1180(治承4)年、源頼朝が石橋山に挙兵した時、父重能が平家に仕え在京していたため、弱冠17歳の重忠は平家方として、頼朝方の三浦氏を討伐した。
(母方の親戚を討伐してしまうというのは、この時代ならではだとしみじみ感じる。)
しかし、その後まもなく頼朝に仕え、鎌倉入りの際には先陣を務め、一の谷の合戦などで多くの手柄をたてた。
そして、1187(文治3)年11月までには菅谷館に移り住んだといわれている。
これが菅谷館跡の全景。
菅谷館跡は、約13万平方メートル(東京ドーム約3個分)に及ぶ広大な面積を持つ複郭式の平城(ひらじろ)だ。
現在見られる遺構は、重忠公が亡くなった以後の戦国時代に拡張されたもの。
初めに、菅谷館跡内にある、埼玉県立嵐山史跡の博物館に入館した。
入口に、大河ドラマのポスターが飾られていた。
上記の企画展を100円の入館料を払って鑑賞。
重忠公は、地元では武蔵武士の中心人物として人々の信望を集め、頼朝からも厚く信頼されていた。
頼朝死後も和田義盛らとともに御家人の実力者として活躍し、その名を高めたが、幕府内部の勢力争いにまき込まれ、北条氏の陰謀により42歳の若さで武蔵国二俣川(現在の横浜市旭区)で殺されてしまった😭😭😭
菅谷館跡の石碑
土塁を撮影したつもりだが、草が生えすぎてよくわからない💦
本廓(ほんくるわ)。ニノ廓•三ノ廓•西ノ廓•南廓の4つの廓が本廓を囲んで配置されていて、敵が容易に侵入できない構造になっている。
草がボウボウに生えていて、よくわからなかったが。
菅谷館跡の西の森には、オオムラサキの森活動センターがあったので見学した。
帰途に気づいたのだが、嵐山町のマンホールはオオムラサキやホタルが飛び交っているものだった。自然豊かな所だ。
菅谷館跡を1時間ほど歩いてヘトヘトになったので、博物館近くのパティスリーププリエで休憩した。
ケーキセット1000円
ケーキはアンナトルテという名前で、チョコレート、チョコチップ入りのスポンジ、アーモンドクリーム、ガナッシュが重ねられたものらしい。スイーツで疲労回復💪
武蔵嵐山駅までは徒歩15分程だが、嵐山町の和菓子屋岡松屋にも寄ってみた。
史跡最中140円を購入。
重忠公が愛馬を担いで崖を駆け降りた鵯越のパッケージだ。
帰宅して夕食にいただいた。
餡子がたっぷり入っていてかなり食べ応えがあり、甘くて美味しかった。
嵐丸焼きというお菓子の方が有名のようだが、今回は重忠公の館跡を観に来たので、史跡最中を購入した。
横浜市旭区の最中よりも凝ったカタチをしている。
パン工房たろたろ
地元産の小麦とふすまを使った風味豊かなカンパーニュのお店、と東武鉄道沿線タブロイド情報誌(フリーペーパー)に紹介されていたので行ってみたが、売り切れのため既に営業終了していた。
16時近くに行っても無理だわね。
歩数計 14006歩
散歩には少々気温が高い日だった。かなり暑かった。